半月の系譜 序章



 陸軍省を擁する三宅坂の官庁街は、厳しい残暑に感情が蒸発してしまったのかと思うほど、白茶けた空間のように見えた。今、このあたりの人々の大半が建ち並ぶ堅苦しい建物の中で仕事中だからか、人通りそのものが少ない。

 そんな中を、歳の頃十六、七の少年少女二人連れが歩いている。彼らは、少々風変わりな服装と何かを探すような目配りの仕方で、周囲から相当に目立っていた。

「どうだ、音子。なんか見えるか?」

 少年が、連れの少女に尋ねた。

 人なつっこそうな目をした彼は赤い着物を諸肌脱ぎにし、小柄ななりにも伸び盛りの肩と両腕を惜しげもなくさらしている。

 少女ーー雅音子が答えながら、寂しそうに目を伏せる。

「……怖くなるくらい、何も見えないの……。通りを歩いてる人からだって、何の音も感じられなくてーーまるで、街の人々が心をなくしてしまったみたい……」

 うなじの長さで切り揃えられた黒髪が、さらりと音子の横顔に落ちる。その左耳の上に留められた小さな花の髪飾りが、彼女の可憐さをいっそう引き立てていた。山吹色の着物に葡萄茶色の短い袴、膝まである編み上げブーツは、いかにも今時の元気な女の子という風情なのだが。

 そのとき、音子の耳がかすかな音を捉えた。

「……! この近くでーー助けを求めるような音が……!」

 目を凝らして、音の発生源を探る。音子の目は、やがてビルとビルの隙間から煙のように立ちのぼる「音」を発見した。

「源二くん、あそこ! あそこに、誰かいるみたい!」

 音子が煙の発生源を指さすと、源二もその方向に目を向けた。そうしたところで彼には何も見えないのだが、彼は音子の言葉を疑わない。

「行ってみようぜ!」

 

 音子と源二がその場に行ってみると、老婆が大荷物を抱えて路上にしゃがみ込んでいた。

「大丈夫か、ばあちゃん。どうしたんだ?」

 源二の問いに、老婆は苦しそうに息を喘がせた。

「はぁはぁ……入院中の息子を見舞って帰るところだったんだが、この暑さにやられてしまってねえ……。一度腰を下ろして休んだはいいけど、立てなくなっちまった。そのうちに、のどが渇いて頭もぼ〜っとしてきて……あんたたちが見つけてくれてよかったよ」

「おうよ。俺たちが来たからにはもう大丈夫だぜ。楽にしてな、ばあちゃん」

 源二がニッと笑みを見せると、老婆は険しかった顔を少し和らがせた。

「源二くん、おばあちゃんを見てて。わたし、そこのビルでお水もらってくるから」

「おう、なるべく多めに頼むぜ。ばあちゃんのことは俺に任せな」

「うん。お願いね」

 音子は、源二にそう頼みおいて明るい路上に出た。

 そのとき一瞬、平衡感覚が揺らぐのを感じた。

 日陰の路地から急に明るい日向に出たからではない。音子や源二のような者が特別に感じる、強い気配に気づいたからだ。

 音子たちは、これを探すために三宅坂にやってきた。

 だが。今は目の前の老婆を救う方が先だ。

 音子は隣のビルで水差し一杯分の水とコップを借り受け、源二と老婆の待つ路地に戻った。

「……ああ、生き返ったようだ。ありがとうね、あんたたち」

 すっかり元気になった老婆が顔をほころばせたので、音子もほっと一安心した。

「大事に至らなくてよかったです。本当におひとりで大丈夫ですか?」

「そうだよばあちゃん。外はまだ暑いし、こんな大荷物じゃまたへたばっちまうぜ? 荷物は俺に任せて、手ぶらで帰ろうよ。なぁ音子、いいだろ?」

 源二に許可を求められて、音子は一瞬たじろいだ。

 だが、いつまでもこういう状況にいちいちたじろいではいられない。

 わたしは、帝国華撃団魔障陰滅部隊・奏組の隊長なのだから。

 音子はぐっと気を取り直して、源二にささやきかけた。

(源二くん。外は魔の気配が強くなってるの。わたしは、その発生源を見つけたらすぐに発煙筒で合図するから、そしたらもしおばあちゃんを送ってる途中でもこっちに合流して。いい?)

 そして、出撃を命じる号令を小声で下す。

「……事件は前奏曲(プレリュード)のうちに」

「シー・マエストロ(了解、指揮者殿)」

 源二も、音子と拳を軽く打ち合わせて応えた。

「じゃあ、源二くん。おばあちゃんを頼むね。じゃ、また後で」

「おう。音子も気をつけろよ」




*     *     *




 

 源二と別れた音子は、借り受けた水差しとコップを返してから、再び官庁街の表通りを歩き始めた。

 空気にうっすらと色がついているようなーー薄くはあるが魔性を帯びた「音」が辺り一帯に満ちているような気はするが、確たる発生源はなかなか見つからない。

 音子は街路樹の下に立ち止まり、幹に手を当てて瞼を閉じた。自分一人の力で悪しき「音」を見つけられなければ、この地に根ざして生きる植物の力を少しだけ借りる。

 この不思議な力こそが、音子を帝国華撃団・奏組の隊長たらしめるものだ。



 音子は幼い頃、地元出雲でオモンサマと呼ばれる精霊に目を拭われ、強い感情のこもった「音」が見えるようになった。それは、人ならぬ力を授かってしまった彼女を孤立させるばかりでなく、人が自分自身にも隠している強い負の感情を否応なしに見せられ続けることでもあった。

 そんな己を、不運続きで「不幸の招き音子」と呼ばれる己を、音子自身も長く忌み嫌っていた。だが数年前、ラジオで「花組」の歌を聴いたことで、その「歌声」を「見た」ことで、彼女の世界は一変する。

 彼女たちの「歌声」は、目の前の空間を一面の花畑に変えてしまうほどの力と美しさを秘めていた。そのことに、音子はまず驚いた。

 花畑となった部屋には、一緒にラジオを聞いていたはずの友達の姿もなく、音子とラジオがあるだけだった。ラジオのスピーカーから、無数の蛍が飛び立つように光の粒があふれ出した。その一部は宙に浮く花びらとなって空間を優雅に漂い、一部は優しくキスをするように音子の目に、耳に、頬に触れた。肌に触れた「声」は、ソーダの弾けるような感触を伴って音子にこう伝える。

ーーあなたは、ひとりじゃない。わたしたちが、いつでもそばにいるよ。

 あまりにも暖かく慈しみ深いその「声」に打たれ、音子は知らず涙を流していた。

 それは、「音が見える」能力を授かってよかったと思えた、初めての経験だった。

 その日から音子は、「花組」のいる帝国歌劇団を目指して演劇の道に進み、念願かなって帝国歌劇団に入団した。

 帝国歌劇団が帝都を守るために魔物と戦う帝国華撃団でもあり、音子が配属されたオーケストラの奏組が、楽器の音色で魔物を浄化する魔障陰滅部隊だということは、入団してから初めて知った。

 音子は最初こそ驚きはしたが、今では立派に魔障陰滅部隊・奏組の隊長を務めている。ここでなら、周囲から気味悪がられた「音が見える」能力も、人を助ける役に立つし、何よりこの能力を理解し受け入れてくれる仲間がいるからだ。音子と行動を共にしていた桐朋源二も、奏組の隊員ーー音子の直属の部下だ。

 二人はこの近辺で頻発していた、突然人が魂を抜かれて倒れる事件の原因を調査していた。これが降魔と呼ばれる魔物による魔障事件であれば、大事になる前にこれを陰滅するのが奏組の任務である。




 幹に押し当てた掌を通じて、音子はイチョウの木と一体になった。その総体が巨大なコントラバスになったことをイメージして、一番低い音を出すように霊的な自分を振動させる。

 人間の耳には聞こえない低音を周囲に発散しながら、共鳴もしくは反発する音を拾えないか耳を澄ます。

 聞こえる。
 わたしの発する音に、引っかかるような軋む音が……。
 この音を嫌って、身じろぎしてるみたいーー

 音子は音の出力を上げて目を開けた。

 見えた!
 狼煙のように立ちのぼる、どす黒くて攻撃的な音ーー!

 音子は、懐から発煙筒を取り出した。

 場所を特定ししだいいつでも仲間に知らせられるようにしながら、かすかな胸の痛みをいつものように感じる。

 音子は、「音を見る」という余人を以て代え難い能力があるから奏組の隊長に任じられているが、他部隊の隊長たちのように、自身に高い戦闘能力があるわけではなかった。物理的な戦闘能力でいえば、隊長たちどころか、直属の部下である奏組の隊員にも劣る。それは、自分が女で彼らが男だからということを差し引いても、心苦しくてならなかった。

 気を散らしかけたことに気づいて、音子は頭を振った。

(いけない。わたしは、わたしにできることをやらないと)

 そこにいるであろう降魔に気取られないよう足音と気配を潜めて、慎重に近づく。

 そうして、とうとう降魔の姿を発見した。

 それを見た瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。

 爬虫類を思わせる黒い皮膚に包まれた、二足の魔物が卵白のようなどろどろした液体を滴らせて立っていた。足下にある卵殻のような破片と地面にできたしみから、魔精卵から孵化したばかりの降魔だと知れた。

 その大きさは、五、六歳の幼児ほど。後頭部と口吻が張り出た形状の頭の下には、それこそ幼児のような胴体と細い手足、そして三本目の足となって全身を支える太く長い尾があった。

(人型降魔……!)

 音子はその場に凍り付いた。

 降魔は、様々な動植物を模した姿をしていて、知能もその姿に準ずる。降魔の中で最高位に位置するのが本当に人間そっくりの姿をした降魔で、それらは上級降魔と呼ばれ、人型降魔とは区別される。その次に強いのが、今目の前にいる人型降魔だ。人間に近い知能と人間よりもはるかに高い運動能力を持ち、たとえ小さくとも生身で対するのは危険だとされる。

(場所だけ知らせて、見つからないように逃げないと……)

 音子は発煙筒のふたを取って煙を出した。

 それに仲間が気づいて同じように発煙筒で合図するのを、血眼になって探す。

 だから、降魔が音子を発見したことに気づくのが一瞬遅れた。

 気がつくと、降魔が不吉な声を発しながら音子めがけて駆け寄ってきていた。

(逃げられない!)

 恐怖で腰を抜かしながら後ずさる音子の視界に、横から光る物が飛び込んできた。

 小さい刃物が降魔の首筋に刺さり、身の毛のよだつような悲鳴が上がる。

「こっちだ!」

 鋭い声が降魔を呼んだ。

 声の方を見ると、陸軍の軍人が腰のサーベルに手をかけ、今にも降魔に向かって抜き放とうとしているところだった。左手を銀色の鞘に添え、前後に軽く足を開き腰を落として立っている。

 音子は血相を変えて叫んだ。

「ダメ! 降魔は、普通の力じゃ斬れないんです!」

 だが、軍人は聞き入れる様子がない。

「大丈夫だ! 君は下がってなさい!」

「やめて! ここはわたしに−−」

 任せてと言いかけて、音子はきり、と歯噛みした。

 自分にできることは、「見る」ことだけだ。降魔が普通の力で斬れないのは事実だが、それを指摘したところで、音子が彼を守ることもできないのだ。

(わたしは、奏組の隊長なのに……)

 一人では自分の身も守れない自分の弱さが悔しかった。

 何もできないまま、目の前の対決を見ているしかない。

 軍人は、落ち着き払った様子で降魔との間合いを計っているようだった。

「鹿島大神よ……お力を……」

 軍人の低いささやきが、風に乗って少し離れたところにいる音子の耳に届いた。

 そのささやきは降魔にも聞こえたらしく、降魔は一気に間合いを詰めて軍人に飛びかかった。

「キシャアアアア!」

「はあああっ!」

 軍人も、摺り足で間合いを詰めながら、サーベルを一気に抜いた。

 抜きざまに、降魔の胴を左下から斜めに斬り上げ、柔らかい動きで刃を後ろに円転させる。返す刃で、今度は右下から左上にもう一太刀浴びせた。

 降魔の胴にX字状の傷が刻まれ、紫色の体液が勢いよく噴き出す。

 軍人はそれを跳びすさってよけながら、肩の高さで横一文字に刃を薙いだ。

「ギェアアアアア!!!」

 するとなんと、降魔が断末魔の悲鳴を上げながら、黒い炎に包まれて燃え落ちていくではないか!

(う、うそ……! 何の音も見えなかったのに……)

 音子は、信じられない思いでその様子を呆然と見つめていた。

 降魔は普通の力では斬れないが、霊力を込めた斬撃でなら致命傷を与えることができる。それが対降魔戦の基本で、最前線を担う花組や、降魔がらみの小事件を物理的攻撃によって解決する、隠密行動部隊・月組がその戦法をとる。だから、今軍人が降魔を斬れたのは、彼に霊力があるからだろう。それは珍しいとはいえ、あり得ないことではない。

 それよりも音子にとって信じられなかったのは、軍人からも彼の剣からも、霊力のこもった音ーー霊音(れのん)が見えも聞こえもしなかったことだ。

 これはどういうことなのか? 音子には全く想像もつかない。




 我を失ったかのように立ち尽くす音子の元に、剣を納めた軍人がまっすぐに歩み寄ってきた。

「大丈夫でしたか」

 玲瓏としたその声を聞いて、音子は自分が大きな思い違いをしていることに気づいた。

 その軍人は、「彼」ではなく「彼女」だった。それが証拠に、音子よりやや小柄な体の前面には、軍服の硬い布地でも押さえきれないほどの、堂々たる二つの膨らみがある。

「あ……ありがとうございます。おかげで助かりました……」

 音子が礼を言うと、彼女は透き通るような笑顔を見せた。

「あなたに怪我がなくてよかった。私の剣が、本当にあれに通用するかは一か八かだったんだけど……神頼みはしてみるものね」

「あのーーさっきの技は……?」

「ああ、あれは坂東武神流・鎮魔ノ太刀。別名祓太刀ともいって、刀でやるお祓いの型なんです」

「お祓い……それで……」

 音子はそれで半分は納得できた。だがそれにしたって、人型降魔を斬れるほどの霊力とはただ事ではない。

 音子が彼女をまじまじと見つめると、彼女もまた音子を興味深そうに見た。

「あなた、剣術に興味があるの? 珍しいね」

「剣術に……というか、そのーー」

「うん? どうかした?」

 彼女はああそうか、と何かを思い出したように手を打った。

「申し遅れました。自分は、帝国陸軍・騎兵第十八連隊所属の、坂東好少尉であります」

 彼女はそう名乗ると、カチン、と長靴を打ち合わせて挙手敬礼をした。白い手袋に包まれた指の先にまで、心地よい緊張感のみなぎった美しい敬礼だった。

 音子は、条件反射で答礼していた。

「わたしは……雅音子といいます」

 秘密部隊・帝国華撃団の所属を漏らす失態だけは、辛うじて避けた。

 坂東少尉は、敬礼する音子を好もしげな目で見た。

「よろしい」

 そう言われてやっと、音子は坂東少尉の姿をじっくりと観察することができた。

 髪型は軍人らしい短髪だが、顔立ちは愛らしい部類に入ると思われた。見た感じの年齢は、二十歳前後だろうか。浅黒く日焼けした顔に、南国の花を思わせるぽってりとした唇が、一際目を引いた。その唇から紡がれる声が、また澄んで美しい。

「それで? 音子さんは、私に聞きたいことがあったようだけど」

「はい、あの……」

 音子は坂東少尉の目をのぞき込んだ。

 彼女は、わたしの話を理解してくれるだろうか。

「坂東少尉には、何か特別な力があるんですか……? それらしき音は見えなかったんですけど……」

「音が見えない? ……面白いことを言うねー」

 やっぱり、と音子の胸がちくりと痛んだ。

 坂東少尉は、音子の様子にはあまり頓着せず、口に手を当てて何事かを考え込んでいる様子だったが、やがて得心いったように目を見開いた。

「音が見えない、か。本当に面白いなあ」

 軍人らしからぬその口調は、至って無邪気だった。彼女はとっておきの秘密を明かすような口ぶりで続ける。

「音が見えないのはある意味当然ですよ。だって、坂東武神流の剣は、『音無の剣』とも呼ばれるんですから」

「え……?」

「もともとは、我々の立ち合いが一度も得物を合わせることなく一瞬で勝負を決するところからついた別名ですけどね。それでも長くやってると、霊気をも制御できるようになるんです。さっきのも、斬る一瞬にだけ霊気を出してました。音子さんの言ってる『音が見える』って、それがわかるってことでしょう?」

(あ……)

 音子の視界が不意にぼやけ、涙がふっと頬にこぼれ落ちる。

「そう……そうなんです……」

 喉の奥から涙の塊がこみ上げ、鼻の奥がつんと痛くなって何も言えなくなる。音子はたまらずにしゃくりあげた。

「わわっ……ごめんなさい、不躾なことを言って。泣かせるつもりはなかったんです。あの、これで涙拭いて」

 坂東少尉があわてた様子でハンカチを差し出した。音子はそれを受け取ったものの、すぐに涙を拭く気になれず、しばらくハンカチを握りしめて泣いていた。

 すると、彼女の体から戸惑いと悲しみを含んだ音が出かかっているのが感じられた。まるで彼女が泣き出すのを堪えているかのように、音が漏れるのを必死に押さえつけているようであった。

 顔を上げて見ると、彼女は悲しそうな瞳で微笑んでいた。音子に触れようと上げかけた手を、扱いかねて戸惑っている様子にも見える。

 そのとき、源二の声が二人の空間に割って入った。

「おーい、音子……って、ちょっと!」

 源二がつかつかと歩み寄ってきて、坂東少尉に食ってかかる。

「あんた、音子に何をした? 女を泣かすなんて、軍人の風上にも置けねえ野郎だな、おい!」

「ち、違うの源二くん、この人は……」

「大丈夫だったか、音子。いったい何があった?」

「えーとあの……どうしよう」

 坂東少尉の戸惑う声に、源二がぎくりと固まった。目をむいて、音子と彼女を何度も見比べる。

「あんた……女なのか……」

「あ、はい。私は騎兵第十八連隊所属の、坂東好少尉といいます。彼女ーー音子さんが魔物に襲われてたので助けたんですが……」

 それを聞くなり、源二も血相を変えて挙手敬礼した。

「す、すまねえ! ……じゃなくて、ありがとうございました! 音子を助けてくれて」

「ああいやいや、いいんですよ誤解が解ければ。では私は、急ぎますので失礼します。音子さんを、安全なところまで送り届けてやってくださいね」

「了解!」

 源二の声を背に、坂東少尉はでは、とその場を去っていった。

「なんつーか……不思議な人だな……。何者なんだ、あの人は?」

「何者って……わたしもさっき聞いた通りのことしか……」

 音子はハンカチで涙を拭きながら答えた。

「あの軍人さんが音子を助けてくれたのはわかったけどよ、じゃあ、音子はなんで泣いてたんだ?」

 源二の言葉に、収まりかけていた音子の涙がまたあふれた。

ーー音子さんの言ってる『音が見える』って、それがわかるってことでしょう?

 彼女の、まっすぐで気負いのない言葉が暖かく思い出される。

 それだけで、涙が出るほど嬉しかった。

「坂東少尉が……わたしの力のことを、すぐにわかってくれたの……。試そうともしないで、まるで当たり前のように受け止めてくれて……それが−−本当に、嬉しかったの……っ」

 言いながら、涙が止まらなかった。拭いても拭いても、次から次へとあふれてしまう。

 そうしていると、不意に、顔が暖かいものに押しつけられた。源二が肩に音子を寄りかからせたのだ。音子は、彼の肩にすがってしばらく泣いた。

 源二は、音子の頭を撫でるでもなく、ただじっと抱いている。

「よかったな……音子」

 その声に一抹の悔しさが滲んでいることに、音子はまだ気づいていなかった。




*     *     *




「いや〜、びっくりしたなあ……まったく、備えあれば憂いなしだね」

 坂東好少尉は、音子たちと十分に離れてから、軍袴の物入れからもう一枚ハンカチを取り出して額の汗を拭いた。

 ハンカチを二枚持つのは、士官学校時代に華族出身の先輩から教わった淑女のたしなみだった。曰く、いつでも人に貸してあげられるようにしておきなさいと。

 好は、こんな自分でも淑女として遇してくれるその先輩に、憧れと淡い想いを抱いていた。もっとも、先輩にはとっくに婚約者がいたから、その想いを表に出したことはないが。

 それでも、先輩の教えが好の中で生きていることが嬉しかった。嬉しくて、頬が少しほころんでしまう。

 それに、と好は腰に下げた指揮刀の鞘を指で弾いた。真新しい銀色の鞘は、午後の陽光を受け、眩しいほどに光り輝いている。

 その中身は、サーベルではなく日本刀だ。

 この日本刀は、鹿島神宮の霊泉で鍛造し、お祓いも受けた特別製の刀身に騎兵用指揮刀の拵えを施してある。軍服や靴には特別のこだわりを持たなかった好が唯一こだわったのが、この守り刀だった。

 あくまでも鹿島の武人としての精神的な拠り所としてこの刀を誂えたつもりだったが、まさか本当に魔物を斬ることができたとは。本当に、備えあれば憂いなしとは言ったものである。

(ま、ここまでくれば運命としか言いようがないか。左遷もそう思えば悪くないや)

 好は、帝国華撃団・月組に着任するため、銀座の大帝国劇場へと再び歩き始めた。その胸中には、音子や源二と再会できる予感も芽吹くように兆していた。



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